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Tさんは半年前、中古ではあるが念願のマイホームを手に入れ、妻とともにこの町に引っ越してきた。Tさん宅は20年ほど前から宅地造成が始まった静かな住宅街の中央付近に位置している。決して広くはないが庭があり、玄関前には夫婦の車2台が駐車できるスペースも確保されている。勤務先にも近く、周辺にはショッピングセンターや学校などの施設も多い。Tさん夫妻はそんな生活環境がとても気に入っていた。
しかし、引っ越して間もない頃から、あることに悩まされてもいた。猫である。何匹もの猫がTさん宅周辺を我が物顔でうろついていたのである。夜中に鳴く、庭や駐車場で糞をする、車のボディに足跡を残す、家の中に入ってくる……Tさん夫妻は揃って猫が苦手なため、猫たちの“傍若無人”さにかなりのストレスを感じていた。
どうしてこんなに猫がいるのだろうか? そんな疑問を抱いたTさんだったが、その答えはすぐに見つかった。Tさん宅から見て後ろの家の奥さんが猫たちにエサを与えていたのである。そのため、猫たちはすっかりこのあたりを縄張りにしていたのである。
Tさんの妻が近所の人から聞いた話によると、何度かそのこと(猫にエサを与える)に注意を促したこともあったらしい。しかし、聞く耳を持たなかったという。その家の主人が町内会の役員を長く務めていることもあり、今では(内心は腹を立てていても)見て見ぬふりをしているらしかった。Tさん一家も町内では新入りであり、町の顔役との間に波風を立てたくはない。我慢するしかないか……というのがTさん夫妻の結論になっていた。
その日、Tさんは午後9時過ぎに帰宅した。好物のビールを飲みながら、妻といっしょに夕食をとるのがTさんの平日の夜のパターンだった。着替えてテーブルに着くと、いつもより簡単なメニューが並んでいた。そして、怪訝そうな表情を浮かべるTさんに、妻が落ち込んだ表情で話し始めた。話が進むにつれ、Tさんの食欲は急速に衰えていった。
妻の話の内容は次のようなものだった。
妻は週に3日、Tさんを送り出した後、家事を済ませて隣町の縫製工場にパートに出かけている。その工場はTさんの知人が経営しており、その関係で2年前から勤めるようになったのである。
その日は出勤日で、妻は自分の軽自動車でいつもの時間に家を出た。仕事を終えて買い物を済ませ、夕方過ぎに帰宅した。妻は自宅前の駐車スペースに車をバックで入れ始めた。予定より遅い帰宅だったため、いつもより慌てていたのかもしれない、と振り返る妻だった。
車を止めようとブレーキを踏み込もうとした時だった。大きな金切り声が耳に飛び込んできた。妻は一瞬何が起こったのか理解できなかったという。我に返ったのは、聞き覚えのある声が聞こえてからだった。その声の主は後ろの家の奥さんで、顔を真っ赤にして妻を睨みつけていた。恐る恐る車を降りた妻は、ようやく事態を把握することができた……。
Tさんの妻は周辺にたむろする猫を車で轢いてしまったのである。車輪の下になったのであろう、猫の左後ろ足は無惨に潰れ、コンクリートの上は血がたまっていた。事故の様子をたまたま後ろの家の奥さんが自宅の玄関先で目撃し、血相を変えて駆け寄ってきたのである。奥さんは狼狽するばかりの妻に対して罵詈雑言を浴びせると、ぐったりとした猫を抱えて自宅に戻った。そして、すぐに車で出て行ったという。
家に入ってからも、しばらくは放心状態で何も手がつかなかったと妻は嘆いた。そして、Tさんが帰宅する1時間ほど前にその奥さんから電話がかかってきた。
猫は動物病院で治療を受けた。生命は無事だったが轢かれた足は元には戻らない。治療費と慰謝料を払ってほしい−−。
有無を言わせない高圧的な調子で、妻は主人と相談してからと返答するのが精一杯だったという。
Tさんは少し気の抜けたビールをグラス半分ほど飲みこんだ。泣きそうな顔で肩を落とす妻に何と声をかけていいのか、これからどんな対応をすればいいのか。Tさんにはその答えが見つからなかった……。
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