Eさんは市内の総合病院に勤務する看護士。半年前に別の病院から転職してきた。以前の勤務先は自宅から近かったために自転車通勤をしていたが、新しい職場は地理的、距離的、そして夜勤のある勤務体系から、車でないと通勤は難しかった。
そのため、Eさんは久しぶりにハンドルを握ることになった。運転免許は20歳の時に取得していたが、実際はペーパードライバーだったのである。Eさんは姉の夫の知り合いから中古の軽自動車を安く譲り受け、若葉マークをボンネットに貼り付けて通勤を始めた。
自宅から勤務先の病院までは車で約30分。最初は不安いっぱいの通勤だったが、次第に運転にも慣れて自信もつき、近々若葉マークも外そうかと考えるまでになっていた。もっとも、その運転ぶりは安全第一で、余程のことがなければ車線変更はしない(できない)し、職員専用駐車場に駐車する際も、バックで車を入れることは滅多になかった。
その日、Eさんが病院を出たのは午後11時過ぎだった。夜勤者への引き継ぎが長引いたことと急患が運び込まれたため、通常よりもかなり遅い時間になっていた。仕事柄、この時間帯に帰宅するのは決して珍しいことではなかった。
Eさんは少し憂鬱だった。仕事の疲れに加えて、車を運転することに恐怖感を抱いていたからである。この時間帯は交通量が減る反面、多くの車がスピードアップして走行していた。ゆっくり走るEさんは、そうした車からパッシングや幅寄せといった嫌がらせを受けたことがあったのである。
Eさんはいつものように、ゆっくりと車を発進させ、国道に入った。案の定、何台もの車がかなりのスピードでEさんの車を追い越していった。その度にEさんは胸の鼓動の高鳴りを感じるのだった。
しばらく走ると、国道は2車線から1車線になった。Eさんは少しほっとした。このあたりは信号が多く、車線が減少していることもあって、それほどスピードを出す車は多くないのである。そして、あと数分で国道を抜けることができるのも嬉しかった。
Eさんの視界に車のウインカーの点滅が入ってきた。ロードサイドのコンビニの駐車場から、車が反対車線側に右折しようとしているようだった。しかし、そのコンビニの少し先に交差点があり、たまたま信号が赤になっていた。そのため、Eさんがいる左車線は信号待ちの車が列をなしており、その車は動きがとれなくなっていた。
信号が青に変わって車が動き始めた。Eさんはコンビニの出口の少し手前でブレーキを踏んだ。通勤に車を使い始めた頃、なかなか本線に合流できずに情けない思いをした経験がEさんにはあった。その時、自分のために停車して合流させてくれた車の存在がとても嬉しかった記憶が残っていた。
右折しようとしていた車はEさんのささやかな善意に気づき、勢いよく反対車線に合流していった。Eさんが再びアクセルを踏もうとした時だった。けたたましい音とともにかなりの衝撃がEさんを襲った。Eさんが思わず振り向くと、リアガラス越しに黒い車が見えた。そして、その車から男が飛び出してきて、Eさんの車の運転席側のドアを開けた。
「おい、信号青だろ!何こんなとこで止まるんだよ!」
男の怒声が響いた。
「お前のせいだからな。弁償してもらうぞ!」
Eさんはどんな言葉をその男に返せばいいのか思い浮かばず、ただ恐怖に震えるばかりだった……。 |
 |
|
 |
 |
 |
 |
停車中のEさんの車に、後続の黒い車がぶつかってきた。この状況を見る限り、事故の形態は単純な追突事故である。
今回のケースで問題となるのは、黒い車から降りてきた男の言い分が認められるのか、ということだろう。つまり、Eさんが走行中に停車したために事故が起こったという主張である。この男にしてみれば、前方の交差点の信号は青であり、先行するEさんも当然走行を続けると判断したため、止まりきれずに追突してしまった、責任はEさんにあると言いたいのだろう。
しかし、この男の主張は理不尽で身勝手なものに過ぎない。追突事故の場合、後続車(このケースでは後ろからぶつかった黒い車)に責任があるのは常識である(ただし、先行車が不用意に急ブレーキを踏んだ時は、状況によって先行車にも過失が生じる場合もある)。しかも、今回のケースでは先行車(Eさんの車)が停車しており、後続車の過失割合は100%だと考えられる。
従って、自動車保険を使った事故処理も単純に進む。Eさんの車の損害はこの男の対物賠償保険から支払われる。黒い車の修理費もこの男の車両保険(任意)で賄うことができる。仮にEさんがケガをしていれば、その治療費もこの男の対人賠償保険から支払われる。この男がケガをしていれば、自分の治療費は搭乗者傷害保険を使うことができる。
しかし、事故の状況を見る限り、スムーズに事が運ぶかどうかには疑問符がつく。というのも、加害者である男が被害者のEさんに対して、非常に威嚇的な態度をとっているからである。Eさん自身も非が相手にあるということを完全に理解しているかどうかは怪しい様子だ。
この状況でEさんにとって最悪の選択は、相手の態度に押されて自分の非(実際は非などないのだが)を認めてしまうことである。そして、その場で自分に不利な条件(相手方の損害を弁償するなど)で示談を行ってしまうことだ。例えば、自分の非を認めた念書を書いてしまうと、それが後々のトラブルの原因になってしまう。
それでは、Eさんはどうすべきなのか?
まずは、警察と保険会社に連絡することだ。これは事故時の基本中の基本ともいえる対応である。警察に事故の内容を検証してもらい、それに基づいて保険会社に事故処理を行ってもらう。それがEさんにとってベストの選択だろう。
補足すれば、当事者間で示談を行うことは法律で禁止されていることではない。当事者同士の自由である。しかし、今回のケースのように、どちらかが根拠のない責任を押しつけられたり、不利な条件をのまされるなど、大きなリスクを伴うことも多い。
そのため、本誌としても当事者間での示談はオススメできないし、読者の皆さんには万一の際にはあくまで事故処理の基本(直ちに警察と保険会社に連絡する)に徹してもらいたい。
さて、Eさんにとっては、ささやかな善意がアダとなってしまった。だが、Eさんの行為は決して非難されるべきものではない。こうした小さな譲り合いの積み重ねが円滑な車の流れに結びついていくのである。
Eさんには今回のトラブルに屈することなく、これからも安全でマナーの良い運転を続けてもらいたい。もちろん、読者の皆さんにもそうあってほしいと本誌は願っている。 |
| ◇ ◇ ◇ |
| 公道を走行する以上、周囲に危険をもたらす運転は容認されないものである。当然ながら、罰せられるからではなく、それが車を運転する者の最低限の基本的なルールだからだ。読者の皆さんもこの“単純”なことを改めて認識し、安全運転に努めてほしい。 |
|
 |
 |
 |
 |
※このケーススタディは編集部が作成したフィクションであり、実在の人物や団体等とは一切関係ありません。
また、写真も本文とは無関係です。 |
 |
|
|